ロスコ作Black on Maroonの展示における、モネの『睡蓮』との連関

私が最後にロスコの絵画を見たのは、2016年7月のロンドンでのことだった。そこでは展示の一環で、2012年にロシア人自称芸術家によって毀損されたBlack on Maroon(図上)の修復活動がドキュメンタリー形式で紹介されていた。ロスコの絵には、彼をそうした暴挙へ駆り立たせた何かがあるのかもしれない。当レポートでは、絵画の展示というテーマについて、テートモダンにおけるロスコの絵画の展示について考えてみたい。
 

テートモダンが所蔵するロスコの絵画は現在、東館3階のIn the StudioにおいてClaude Monet and Mark RothkoとMark Rothkoの2部屋に分かれて展示されており、Black on MaroonはRothkoの部屋に入って左手の中央に展示されていた。Claude Monet and Mark Rothkoのセクションでは、モネの『睡蓮』(図中)がRothkoの部屋の向かいの壁に展示されており、この中間にはロスコの『無題』(図下)が掛けられていた。一見この構成は、モネの『睡蓮』がロスコの作品への呼び水となっているように見える。しかし知名度の差こそあれ、両者には何らかの深い連関があるからこそ、このように二つが対置された展示となっているはずである。実際にその展示において、ロスコは50年代にモネの作品に立ち戻り、自己の作品との共通点を見出したと説明されていた。またRoy (2007) によると、モネの『睡蓮』は2007年のテートモダンでも—当時のナショナルギャラリーにおいて彼の『アイリス』(1914-7)が、彼の早期の作品や他の19世紀絵画の中で展示されていたのと対照的に—ポロックやロスコの作品とともに展示され、その展示は抽象表現主義とその起源との関連で説明されたという。
 

次に両者の連関について議論を進める。山梨(1999)が指摘するように、ロスコの絵画は極めて抽象性が高いにも関わらず、彼は自らの作品が抽象絵画と呼ばれることを嫌うという。なぜなら、彼は「抽象絵画」が理論として形式化されていく中で、自らの絵画がその形式に「搦め取られる」(山梨, 1999, p.202)のを避けようとしたのが第一の理由である。第二に、あらゆる要素が削ぎ落とされていく抽象画においては、絵画そのものが具体的なものに単純化されてしまうというひとつの帰結に気づいていたためとされる(山梨, 1999)。すなわち、ロスコの絵は、他の形式化された抽象画とは一線を画し、自律性を保とうとしているのである。つまりモンドリアンやカンディンスキーの抽象画が、何かを抽出したものとして、見るものに現出するのに対し、ロスコの絵はより強く存在感を伴って彼らに働きかける。
 
『睡蓮』とよく似た色彩の『無題』が置かれていることで、それらには記号的な関連—具象からの抽象—が存在するのでは、とその二つの絵を見た人は想像するだろう。しかし、薄暗い光に包まれたRothkoの部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、その予想は裏切られる。そこにあるのは、一切の記号的形式を排した—そのようにして存在するのが不可能に思われるほどの—「存在」なのである。このように計算された(と推測されうる)目論見によって、そこで展示されるBlack on Maroonを始めとする彼の作品に人々は引き込まれてゆくのだろう。

参考文献
山梨俊夫. 1999. 『現代絵画入門 : 二十世紀美術をどう読み解くか』, 中央公論社.
Roy, A. 2007. Monet’s Palette in the Twentieth Century: Water-Lilies and Irises. National Gallery Technical Bulletin, 28(4), pp. 58-68.

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